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夢の小説家デビュー!comicoノベル作家オーディション結果発表!賞金総額250万

オールジャンル部門
準優秀賞

七色の境の君

作家:朱猫

  • 第一話

    「わたしのいらないものをあげます」
     なんて言われたら、どんな返事をするのが正しいのだろう。

     あの日、僕が彼女と出会ったときに言われた言葉だ。
     僕は彼女と出会い、もう見ることのできなかった光を見た。
    その代わりに、僕は彼女にどこまでも続く闇を受け渡した。
    これは儀式なのだと、やらなければいけないことなのだと彼女は迷わずに僕に光を渡した。
     少しでも亀裂(きれつ)が入れば、そのまま破裂してしまいそうな思いを細い足で抱えながら、彼女は「死にたい」と呟き続けていた。
    「だから、そのために私は無にならなければならないの」と――。

     これは、まだ僕が僕の世界にいた頃のことだ。

    ◆ ◆ ◆

     僕には直さなければいけない習慣がある。
    それは、部屋の明かりを付け忘れること。
     これを怠ると、母親の涙を浮かべる顔が僕の脳内を埋め尽くすからだ。
     ただ、この作業は些か面倒なものであった。目が見えない僕に光なんてものは必要ないからだ。
    僕は幼い頃に視力を失った。
     原因は事故だったのだけど、僕への天罰のように視力は失われてしまった。
     母は酷く自分を責め続けた。
    「私が一緒にいれば、こんなことにはならなかった」
     と何度も泣いた。
     暗闇の奥で響く母の震えた声は、いつまで経っても僕の頭の中から離れず、そのたび僕は頭を抱えて聞こえないふりをした。
     僕はがんばろうと思った。なんでもひとりでできるようになろうと決めた。
     母を悲しませないために、自分自身を見失わないために。
     なのに、部屋の明かりを付け忘れるという癖がなかなか直せずにいた。
     もちろん、つけなくても生活はできる。つけなくても僕自身に問題がないからこそ、そのことが悪いことなのだと気がつきにくい。
     部屋の明かりをつけないことで、何が問題かというと、やはりこれにも母が絡んでいる。
     明かりのない部屋で、ひとりでいる僕を見て辛いのだと言うのだ。
    「これでは、雄大の存在を否定しているみたいだわ」
     と、いつか言われたこともあった。
    「私への、あてつけなのね」とも。
     そして、いつも最後にこう付け加える。
    「ごめんなさい」
     この言葉が、僕はとても大嫌いだった。
     あの事故は僕が引き起こしたのだ。それを謝られることは、とても辛いものだった。
     部屋の明かりを付け忘れることは、母を悲しませないために直さなければいけない癖なのだ。

    ――パチ。
    スイッチの押される音が耳に飛び込んでくる。
    しまった。考え事をしていたせいで、人が近寄っていたことに気付かなかった。
    今日は何を言われるんだろう。身構えていると、「びっくりしていますね~」と妹の声。
    「ママに気付かれる前でよかったね」
    「なんだ、小百合か」
     僕はほっと胸をなでおろす。
    小百合は僕のひとつ下の妹で、高校一年生。声が大きくて『明るい』という言葉を人に例えたら小百合のようだと僕は思う。
    「って、あれ、お兄ちゃん、どうしたの?」
     スイッチを押したのが母親じゃなかったことへの安堵感から、とても間抜けな顔をしていたようで
    「変な顔~! ただでさえ老け顔なんだからさ、ピシっとしなよ。ピシっと!」とケラケラ笑った。
     小百合は僕の顔をよく貶(けな)す。僕の目が見えないことをいい事に、すぐに人の不安を煽る。
     そのせいで、僕の中の僕は相当ハチャメチャな容姿をしている。
    「あのさぁ~」
    小百合は急にしおらしくなった。
    「ん?」
    「サイコロ公園でもいかない?」甘い声で、とってつけたように言う。「せっかくの夏休みだしさ?」
     小百合は最近、頻繁に僕を夜の公園へ誘うようになった。
     サイコロ公園は、近所にある大きな中央公園で、住宅地をメインとしているこの街では唯一の遊び場として重宝している。ライトアップされた噴水が、夜空から降る宝石のようだと有名らしい。夏休み期間は夕刻を過ぎると、若者のたまり場になっているそうだ。
     なぜ、小百合がサイコロ公園に兄の僕を誘うかというと、のちに、小百合が彼氏と会うために僕を利用していたと知ることになる。たしかに、心配性の母親が高校一年の娘を夜に外出させるなんて許可するわけないもんな、と妙に納得した。

     家を出ると、心地よい夜風が頬をなでた。昼間の太陽に干された風は自分にまとわりついていた暗くジメジメした気持ちを夜の闇へ連れ去っていった。
    しばらく母の監視下から逃れられると思うと、重い荷物をおろしたような安堵感にあふれる。
     これは、もしかして反抗期というものなのだろうか。小百合とふたりで家から逃げるように足早に街にいった。
     小百合は、目に見える景色をひとつひとつ僕に教えてくれた。小百合の言葉で僕の前に『道』ができていく。
    「お兄ちゃん、この場所覚えてる?」
    唐突の質問に僕は一瞬何事かと思ったが、考えにいきつくより先に小百合が答えを言う。
    「お兄ちゃんと小百合がはじめておつかいに行ったお店だよ」
    「オレンジスーパー?」
    「そうそう!」
     僕の目の前に当時のオレンジスーパーの映像が浮かぶ。
    薄汚れた看板。
    立ち話に花を咲かせているおばさんたち。
    店に入ると色とりどりのフルーツが売ってあって、あの匂いが好きだったっけ。
    店先にはガチャポンが三台あり、買い物の手伝いをすると、どれかひとつだけやらせてもらえるから僕はこの店に来るのが楽しみだった。
    「五才と四才のはじめてのおつかいで、行かせるお店がこんな近くのお店とか、さすが心配性のママって感じだよね」
    「たしかに」
    「しかも、ママったら、おつかいで頼むものが店員さんに挨拶してくるだけ、とかさ~」
     そうだったそうだった。僕は、あの日玄関先で見たまるで今生の別れかのような母の深刻な表情を覚えている。
    「普通はお金持たせて何かを買ってくるとか、そういうのじゃん。おつかいっていうくらいだし」
    「お金を持たせて、金目当ての悪い大人に誘拐されるといけないからとか言ってたよな」
     小百合は、そうそう、と笑いながら、
    「もっと息子と娘を信用してほしいもんだよね、ホント」
     と毒をちくりとはく。
    「まだガチャポンは三台ある?」
    「ううん、もうなくなっちゃたんだよ。ガチャポンも、オレンジスーパーも」
    「・・・・・・そうだったのか」
     この世界で僕が目にした数少ない情景。
     僕の記憶で広がっていた、当時の優しい思い出はすっと暗闇にとけていった。

    「ついたー! あたしたちの楽園~♪」
     小百合の嬉しそうな声がサイコロ公園に響く。知り合いが多いのか、小百合はつくなり何人もと挨拶を交わしている。
    「あれ、マコちん!?」
    小百合の声がひときわ大きくなった。
    「すっごく久しぶりじゃない~? 中学卒業して以来だから、半年ぶりくらい!?」
     小百合が矢継ぎ早に誰かに話しかける。
     一方的に小百合が喋っているばかりで、相手の声は聞こえなかった。静かな子なんだろうかと想像する。
    「あ、紹介するね。これ、お兄ちゃん」
     どうも、と軽く会釈をする。
    「愛想悪く見えちゃうかもしれないけど、ちょーっとだけ目が悪いってだけだから、安心してね! とっても優しいお兄ちゃんだよ」
    少女はふふっと笑い、僕は少し照れくさくて下を向いた。
    「マコちんは、同じ中学通ってた子。超真面目な優等生なんだよ!」
    『真心』と書いて、『マコ』と読むのだと教えてもらい、僕は彼女の両親の愛を垣間見たような気がした。素敵な名前だというと、彼女は照れながら笑った。
    「んで、今日はどうしたの?」
    「あ……針間さんたちから、誘われて」
    「そうなんだ?」
     珍しいね、と言いながら、小百合は首をかしげた。
    「マコちんと針間さんって接点あったっけ?」
    「うん、最近ちょっと仲良くしてもらってて」
    その言葉に、少し余所余所しさを感じたのは気のせいだろうか。
    「じゃあ、もう行くね」
     そう言うと、真心は足早に公園の奥へ走っていった。
    真心の足音が消えた先からは、ギターの音と共に女性の歌声が聴こえる。知らない歌声だ。
    「前いた路上シンガーの人いなくなっちゃったんだな」
     去年あたりから、サイコロ公園に来ると歌声が聞こえていた。
     ここ一ヶ月ほどあの歌声が聞こえなくなっていたが、また別の誰かが同じ場所で歌っているらしい。
    「あぁ・・・・・・うん、あの人ね、同じ人なんだよ」
    「まさか」
     なんだか印象が違う。以前の透明感のある声とは違い、声が明らかにかすれているように思えた。
    「風邪かな?」
    「ううん。友達があの人のファンなんだけど、病気で喉の手術をしたんだって」
     それでも、歌を歌い続けているのかと僕は胸を打たれた。
     自分にもそこまで大切にしたい何かがあるだろうか。答えは見つからなかった。

     僕をいつものベンチで座らせると、小百合の声はワントーン高くなる。
    「じゃ、お兄ちゃん。ちょーっとここで座って待っていてね」
     小百合の足音が嬉しそうに僕を置いていった。
     ベンチに一人。
     笑い声や砂利(じゃり)を蹴(け)って走る音など、様々な音が僕の暗闇に色をつけていく。
     どこからか鈴の音が耳に飛び込んで、古い記憶を呼び覚ました。
    ――――鈴。
    それは、僕が最後にこの眼に映したものだった。
    六歳の頃、新しいランドセルを背負い線路をかけぬける際、僕は線路の複雑な道に躓(つまづ)いた。その衝撃で止め具をし忘れたランドセルからは教科書が落ち、線路に散らばってしまった。僕の耳に警報機の音が聞こえなかった。たとえば、あのときもし警報機が聞こえていたとしても、新しいランドセルと教科書を置いたまま逃げることはできなかっただろうと思う。
    最後の教科書を拾い上げ、これで母親に怒られずに済むと思った瞬間、僕は宙に飛ばされた。ものすごい勢いだった。気の遠くなるような衝撃で跳ね飛ばされた。
    僕にはその状況が理解できず、泣く余裕すらなかった。
    地面に叩きつけられ、薄れていく意識の中で、僕の目の前にひとつの鈴が転がってきた。
    珍しい色をした鈴だ。
    その奥深い色合いが揺れる視界に混ざってとても綺麗だと思った。
    その瞬間、僕の意識は消え、そして目覚めたときには僕の目は見えなくなっていた。
    僕にとって、鈴は最後に見たものとなったのだ。

    古い記憶が鮮明に蘇ってきて、鼓動が一気に早くなった。
     気がつけば鈴の音の持ち主はどんどん僕に近づいてきて、僕の隣に腰を下ろした。花のような爽やかな匂いがしたので、女性なのだろう。 
     しばらくの沈黙のあと、その女性が言った言葉に困惑した。

    「わたしのいらないものをあげます」

     か細い声が、そう確かに言った。
     恐る恐るその言葉の意味を聞き返す。しかし、その返事はない。
    僕の困惑を無視して、彼女は淡々と言葉を紡いでいく。
    「もう一度、目が見えるようになったら、きみは幸せ?」
    「え?」
     そんなこと誰にも聞かれたことがなかったから分からなかった。
     そんなこと考えること自体、僕にはいけない(・・・・)こと(・・)だと思っていた。
     けれど、もし目が見えるようになったら、母さんが笑ってくれるような気がした。
     僕はしばらく考えたあとに、
    「それなら、わたしの・・・・・・」
     頬を切るような突風が吹き、彼女のその言葉を遮った。しかし、
    「目をあげます」
     その言葉はしっかりと確かに僕の耳に飛び込んできた。

     そのときだった。
    一瞬、目の奥が焼けるように熱くなるのを感じた。
     思わず目を閉じずにはいられなかったが、それにも関わらず眩しさを感じた。
     恐る恐る目を開けると、
    僕の目の前には、数え切れないほどの色のついた映像と
    そして、一人の少女がいた。

  • 第二話

     昔、僕は戦隊ヒーローが好きで、妹の小百合は魔法少女アニメが大好きだった。
     ハートのステッキで魔法を繰り出す女の子に私もなりたいと毎日言っていた。
     そうか、僕が出会ったのは、そんな魔法少女の一人だったのかもしれない。
     頭を強く打って、視神経がぶっつり切れてしまったのだと、いつか先生に説明を受けたことがある。あまり賢(かしこ)い方ではないけれど「ぶっつり」切れてしまったものが「うっかり」治ってしまうことなんてないことくらい僕だって分かる。
     でも、実際は「うっかり」僕の目は見えるようになってしまった。そんな、ありえないことを可能にできるのは、魔法とかそういうことにしないと説明がつかない。
     なんて、結論に行き着いた途端、僕の目の前で先ほどの少女が踊りだした。ハートのステッキを持って、リボンのいっぱいついたスカートをひるがえして。・・・・・・あれ、こんな格好していたっけ?
    「私の正体、バレちゃった?」
     少女は、ふふんと軽めに笑うと、
    「じゃあ、記憶を消させてもらいまーーーーーす」
     そこで、意識はぶっつりと途切れた。
    「・・・・・・夢か」
     少し開いた窓から入ってきた空気に身震いすると、鳥たちの甲高い声や誰かがジョギングする音が耳に飛び込んでくる。
    「ん、朝?」
     気がつくと、僕はベッドの上に横たわっていた。窓から差し込む太陽が目を刺激する。
    「んんんんん!?!?」
     すきま風に揺れる緑のカーテン、恐竜の肌のようなザラザラした壁、読みかけの点字の本、淡い色のカバーのついた扇風機。あまりにも殺風景な部屋が僕の瞳に映し出された。
    「なんで、目が見えるようになっているんだ・・・・・・?」
     記憶を辿ってみても頭を叩いてみても、思い出せない。どこまでが現実で、どこからが夢だったのか。
    もしかしたら全部が夢だったのかもしれないけれど、そしたら僕の目が見える意味が分からなかった。

     僕は五才のときに視力を失った。だから当然、見たことがあるものも五才のときのままだ。 
     青色は空の色。
     赤色はりんごの色。
     黄色は小百合のお気に入りのワンピースの色。
     オレンジ色はオレンジスーパーの看板の色。
     緑色は僕が好きだった戦隊の色。
     そして、水色は水の色ではない。
     僕はそんな風にしか、色を知らなかった。
     慣れていたはずの家の中を見渡すと、知らない色が溢れていた。思わず涙がこみ上げてきそうになったが、ぐっと堪えた。

    この目がいつまで見えるのか分からないけれど、見えるうちに見ておきたいものがあった。それは、僕自身の顔だ。
     この世界に自分の顔を十年ぶりに見る人は一体どのくらいいるのだろう。
    『お兄ちゃんは十六歳にしては、老け顔だからな~』
     ふと小百合の言葉を思い出して、鏡のある洗面所まで向かう足が億劫(おっくう)になる。
     そんなことはないだろう、と思う反面、本当におじさんみたいな面持ちになっていたらどうしよう、などと考えを巡らせた。
     洗面所に入り、壁に備えられている明かりのスイッチを押す。
    僕が押したスイッチを合図に、暗闇に隠されていた洗面台や洗濯機、下に敷かれている落ち着いた緑色のマットが一瞬で姿を現す。手探りもせずにスイッチが押せたことに改めて目が見えることは便利なのだと思った。
     そして洗面所に足を踏み入れる前に、僕は鏡に映った僕を見た。
     鏡は僕の身長にちょうどいい高さにあり、きれいに僕の上半身が映し出された。緊張しながら、静かに洗面所に足を踏み入れる。
    そして、洗面台の前まで足を進めて改めて自分の顔をまじまじと確認した。

    「・・・・・・なんだ、老けていないじゃないか」

    老けているときいて、もっと皴のある顔なのではないか……とか、白髪が生えてしまっているのではないか……と想像していたので、拍子抜けしてしまう。
    決して端整な顔立ちではなかったが、そこまで不細工な印象は受けない。
    とりあえず、老けてはいないだろう。
    一番の心配はそこだったので、ひとまず胸をなでおろす。
    しかし、記憶の中の僕はもう少し顔が丸かったし、もう少し首も細かった。
    鏡に映る現在の僕は少し細長い輪郭で、首も随分と太くしっかりしていた。目の形も気持ち細く、はしゃいでいたあの頃の輝きはそこにはないように思えた。しかし、目が見える。それだけで僕の心は充分に輝いていた。
    これでもかというくらいその場に立ち尽くして、自分の顔を何度も何度も目と手で確認した。
    一息をおく。鏡に映る僕に丁寧に頭をさげた。
     あ、どうも。お久しぶり、僕――。

    「おはよー!」
    「うわっ・・・・・・!!!」
     自分自身との再会の余韻に浸っていたところで、聞きなれた声が僕の耳を列車のごとく突き抜けた。
    「な、なんだよ」
    「お兄ちゃん、昨日小百合が戻ってきたら気失っててさ~びっくりしちゃったよ」
     もう大丈夫なの? と聞きながら、僕の額と自分の額を交互に手のひらを合わせる。
     僕の記憶の中の小百合は真っ赤な頬で、素朴な女の子だった。背だって誰よりも小さかった。
     それが今、僕を上目遣いで見ているこの少女があの素朴な女の子だとは・・・・・・。疲れたシャツからは乳白色の肌が見え、思わずドキリとする。
    「熱はないみたい」
     小百合はほっとした表情をしたあとに、僕の顔を見つめ、首をかしげた。
    「でも、顔真っ赤だよ。なんで?」
    「え!?」
     我が妹の成長した姿に思わず胸が熱くなりました・・・・・・とは言えるはずがない。
    「いや、なんか、ごめん」
    「え、なにが?」
     僕は、ただ謝ることしかできなかった。
     
    「ママ、もう仕事行っちゃったみたいだね~」
    小百合はどこか安心したような表情で冷蔵庫を開いた。テーブルには、母親からのメモとラップにかかった朝食が用意されている。
    「あ、そうそう、このオレンジジュース知ってる、前に友達がね・・・・・・行った時に」
    小百合はコップに飲み物を注ぎながら語り始めた。
     まるで、外で鳴いている蝉(せみ)のように次から次へと言葉を紡いでいくので、僕にはそれを理解していく余裕がなかった。
     小百合は一緒にサイコロ公園に行ったんだから、あの後のことを知っているはずだ。聞いてみようか、と思うものの、なかなか聞き出せず手元にあるグラスを見つめることしかできなかった。
    「あ、お兄ちゃん」
     喉元にモヤモヤ渦めいているものを一気に流し込もうと、グラスを持ち上げたその時だった。
    「目が見えるようになったって、本当?」
    「え?」
     全身から一瞬で汗が湧き上がってくる。
    「ほら、昨日、お兄ちゃんの隣にいた人から聞いたよ。昨日一緒にいたでしょ」
     きっと、あの少女のことだ。
    「お兄ちゃんが気失ってて、どうしようかって心配してたら、そう教えてくれたよ」
    「えっと・・・・・・よく分からないんだ」
     昨日起きたことを冷静に思い出す。
    「急にあの人が隣に座った。何か言われたような気がして・・・・・・そしたら、急に目が見えるようになった」
    「え・・・・・・? よく分からないんだけど」
    「うん、僕にもよく分からない」
    「あの女の人、魔法使いだったりして」
    「魔法使い・・・・・・」
     つい、今朝の夢を思い出して身震いする。
    「やだ、そんなわけないじゃん!」
     小百合は自分に言い聞かせるように、ははっと笑った。
    「母さんには、このこと内緒にしてほしいんだけど」
    「なんで?」
    「小百合ならわかるだろ?」
    「まぁ、なんとなく」
     この目が見えているのも一時的なものかもしれない。落ち着くまでは、まだ打ち明けられないと思った。
    「というか、昨日僕は気を失ってたんだよね? そのあと、どうやって帰ってきたんだ?」
    「あ~、え~っとね~」
     急に小百合の目が泳ぎだす。
    「小百合の彼氏・・・・・・」
    「え?」
    「小百合の彼が担(かつ)いでくれた。家の前にきたら虚(うつ)ろ虚(うつ)ろでお兄ちゃん自分で歩いたんだけどね」とモジモジと髪をいじりながら言う。
    「あ、彼氏がいるってこと、ママに内緒ね」
    「なんで?」
    「お兄ちゃんならわかるでしょ?」
    「はは、なんとなく」
     まぁ、彼氏くらいいいんじゃないのか、急に目が見えるようになるのに比べたら、とか思ったが、真剣な小百合の眼差しに「言わないでおくよ」としか言えなかった。
    「小百合も目が見えるようになったこと、絶対絶対言わないでおくね!」
    「『絶対』って言葉を連発されると、逆に怖いんだけど」
    「じゃあ、小百合も多分言わないでおくね、多分!」
    と小百合は調子よく言い直した。

     朝食を終えて、小百合は洗い物をしていた。つけているテレビは『しばらく猛暑日が続きます』と繰り返し伝えていた。小百合はその度、ため息を漏らしている。
    「ちょっとサイコロ公園に行ってみるよ」
     僕がそう声をかけると
    「昨日の人に会いにいくの?」
    「うん」
    「名前知っているの?」
     僕は首を横に振る。
    「知らないのに行くの?」
    「久しぶりに、散歩がてらちょっと行ってみるよ」
     自分でも無謀だとは思ってはいたが、もう一度あの少女に会って話をしたかった。
     あの場所に行けばまた会えるような気がした。漠然とだけれど。
    「あっ、ちょっと待って!」
     小百合は忙しなく僕を呼び止めた。
    「この小物入れ、昨日その人が落としていったんだ」
     白い色をしたそれは、揺らすとチリリンと鈴のような軽い音が聞こえてくる。たしかに、昨日の少女が僕に近づくときに鈴の音を聞いた。
    「もし、会えたら渡しておいてね」
    「わかった、ありがとう」
     手渡された白い小物入れを手に持ち、僕は家を出た。
    「今日は猛暑日らしいよ! ちゃんと前見て歩くんだよー? 気をつけてねー!」
     僕が見えなくなるまで小百合は大きな声でそう言っていた。最近、小百合は母に似てきたと思う。
     
    滑らかに世界が流れていくのが、自分の目で見て感じることができた。
    人との距離感もつかめるし、壁にぶつかってしまったり、草木に足を踏み入れてしまうこともない。
    視覚以外の感覚で、歩いてきたこの街は、思ったよりもこじんまりとしていて、一人では遠いと思っていたサイコロ公園にもすぐついた。
    僕が視力を失ってから新設されたという噴水は、勢いよく天に向かって飛沫を上げていた。太陽の光にあたった雫たちはキラキラとサイコロ公園を彩っている。
    僕は、目をくれた少女と出会ったベンチに腰をかけた。その前方をたくさんの子どこたちが楽しそうに走り抜けていく。
    一定間隔で吹き上がる噴水を、ただぼーっと眺めながら、あの少女を探してみた。
    だが、それらしき姿は一向に見当たらなかった。そりゃそうか。
    名前も知らない。顔だってまともに覚えていない。思い出そうとすると、それは夢の記憶のようにどこかへ逃げていってしまう。
    そんな状態で会えると思ったのが間違いだった。
     
     家とサイコロ公園の間にオレンジスーパーはあったはずなのだけれど、僕の知っている景色とは違く、来るときに気付くことができなかった。
    なので、帰り道は記憶をたどって歩いてみることにした。
    「たしか、この角にあったよな」
     たどり着いた場所には、知らない建物がまるで昔からあったかのようにそこにあった。
    「ほんと跡形もないな」
     昨日はなくなったと聞いて、暗闇に葬(ほうむ)られる優しい記憶に惜しんだりもしたけれど、いざ目で見てしまうと潔い気持ちになる。
     オレンジスーパーの跡地は、『こもれびのいえ』という施設になっていた。
     木で覆われたその施設の中には、小さな子供がキャッキャと走り回っていていた。
     しばらく見ていると、子供たちを見守っていた責任者らしきおばさんが柵越しに僕に会釈した。
    「こんにちは」
     それに続き、走り回っていた子供たちも元気な声で挨拶をする。
    「ごめんなさい、楽しそうだなって」
    「いえいえ、よかったら見に行かれてね」
     おばさんは僕に手招きしながら、僕に近寄ってくる。
    「あ、あの、大丈夫です」
    「あら、そう?」
     僕がその場を離れようとすると、その足をおばさんが呼び止めた。
    「あら、待って。それ・・・・・・」
     おばさんが僕の持っていた小物入れを指差す。
    「それ、シンリちゃんのじゃないかしら?」
     しんり・・・・・・?
    「これ、昨日、拾ったんです」
     拾った場所を教えるとおばさんは手をたたきながら、こう言った。
    「じゃあ、やっぱりあの子のだ。昨日、サイコロ公園に行ったって言っていたもの! ちょっと待ってて、今呼んでくるから!」

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