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夢の小説家デビュー!comicoノベル作家オーディション結果発表!賞金総額250万

オールジャンル部門
準優秀賞

萌えるゴミ

作家:無味乾燥

  • 第一話

     大淀 愛子(おおよど あいこ)はヲタクである。
     そして(隠れ)腐女子である。
     29歳。出版社勤務。編集者。
     三度の飯よりBLが好き。家には寄り道せず真っ直ぐ帰り、ビール片手にアニメに興じ、ひたすらゲームをやりこむ。薄い本を読んでは、ベッドの上を転げ回りながら萌え、悶え、SNSでは腐女子のお仲間と萌え談議に深夜まで花を咲かせる。
     三次元の男に興味はなく、むしろ嫌いである。正直

    愛子「イケメン以外は滅びていい。そしてイケメンはすべからくイケメンと恋に落ちて、大いに身体で愛を語り合えばいい」
    稲森「お前……酷いな」
    愛子「口に出してはいないよ?」
    稲森「口に出さなけりゃいいってもんでもねーぞ?」

     だが、それが嘘偽りない正直な気持ちなのだから、仕方がない。

    稲森「仕方ねーのかよ」

     仕方がないのだ。開始早々男性読者を悉く敵に回そうとも、仕方がないのである。

    愛子「それが、私なんだもの」
    稲森「いい顔して言うなよ」

     給与のほとんどは、好きなアニメに、その推しキャラに、崇拝するBL作家様の本に、お慕いする同人作家様の薄い本やグッズに、イベントにと費やされる。貯金? 何それ、美味しいの? 食費を切り詰めてまで、貢ぎ倒す。給料日前の数日間、水だけで過ごしたことだって一度や二度の話ではない。クレジットカードは持っていない。絶対に持ってはいけないと、友人達から止められている。愛子自身、そう思う。持ったら、おそらく際限なく使ってしまうことだろう。結果は目に見えている。
     そのため、友達付き合いも最低限だ。趣味を明かした友達は、口腔から一緒の稲森 滋(いなもり しげる)と稲森の彼氏である水嶋 嗣郎(みずしま しろう)のみ。いろいろ隠しての付き合いは面倒臭いため、それなら最初から友達は作らない。顔見知り、知り合い以上の関係にはならない。
     だから、会社での付き合いもすこぶる悪い。飲み会には常に不参加。社員旅行も、大体病欠。去年は、業を煮やした稲森に引っ張って行かれたが、ホテルから一切出なかった。
     人付き合いをする気がない。余計なお金を使いたくないからだ。

     親友に言わせるなら、愛子は

    稲森「萌える(ことだけを目的に生きている社会の)ゴミ」
    愛子「アンタのが酷いじゃない! 本人を前に口に出してるし!」
    稲森「間違ってるか?」
    愛子「間違ってはいないけども」

     趣味を完璧に隠しているがゆえに、靡かない。動じない。交流をはからない。表情筋が凝り固まっていて、とっつきづらい。心の防御壁が半端なく、何をどうしても仲良くなることができない。仲間意識を持てない。一体感を得られない。

    愛子「こうして聞くと、相当だなぁ……」

     だが、仕事だけはこれ以上はないというほどデキる。頼れる女――。それが、皆の知る大淀 愛子である。

    稲森「結局、なんかかっこよくまとまったなぁ……」

    ――で、あったと言うべきか。

    愛子「え?」
    稲森「ん?」


     *****


    愛子「――そろそろですね」

    すっくと立ち上がり、お茶の準備をする。

    後輩「あ、大淀さん。私が……」
    愛子「いいの。良いお茶を買ってきたから」

    愛子はにっこりと笑った。

    愛子「敵を丁重にお迎えして差し上げなくてはね」
    後輩「っ……! そうですね!」

     お湯を沸かし、少し冷ましてから、急須に入れ、しばし待つ。「誰か、お茶ー」という編集長の声がする。愛子はニヤリと唇の端を持ち上げた。タイミングはバッチリである。
     お客様の用の湯呑みにお茶を注ぐ。良い香りが、給湯室に漂う。それをお盆に載せて、
    愛子は給湯室を出た。ギラリと、鋭い視線を巡らせる。

    愛子「失礼いたします」

     窓際に置かれた応接セット。飴色のセンターテーブルに、お茶を出す。チラリと、その上に広げられた用紙に視線を走らせた。部数、5000の文字。
     愛子は内心舌打ちした。部数5000? 単行本部数5000!? それでは、全国の書店に行き渡らないではないか。確かに新人さんではあるが、新人だからこそ、これでは
    話にならない。名前を売らなければいけない大事な時期に、棚ざししかできない部数? 漫画家の将来を思うなら、全店で平積みとは言わないが、せめて全国の書店に回るだけの部数は欲しい!
     チラリと編集長を見ると、同じ思いなのだろう。渋い顔で票をにらみつけている。この後の部数決定会議は間違いなく荒れるだろう。
     
    営業部の顔見知り――橘 啓介(たちばな けいすけ)「あ。大淀さん。大淀さんにも紹介しますね」
    愛子「はい?」

     橘が立ち上がる。その時になって、ようやく橘の隣に誰かが座っていることに気づく。いつもは一人なのに。
     その『誰か』も、橘に続いて立ち上がる。
     さらりと、色素の薄い茶色の髪が揺れた。

    橘「新しくウチに配属になった、篠原 遥くん。ピッチピチの24歳」
    篠原「やだな。橘さん。ピチピチだなんて」

     篠原と呼ばれた青年が、恥ずかしげに頬を染める。そして愛子を見、はにかんだ笑顔を浮かべた。

    篠原「営業部に配属になりました、篠原と申します。よろしくお願いいたします」
    愛子「――っ!」

     ドクンと、心臓が大きな音を立てる。衝撃が、走る。愛子は目を瞠った。
     低くはないが高くもないちょうどいい身長。スタイルは抜群だ。その腰の細いこと細いこと!
     ルックスも最高だった。サラサラのクセのない茶色の髪。ともすれば気が弱そうにも見える、優しげな瞳。中性的で柔らかい。はにかんだ笑顔が死ぬほど可愛い。
     所在なさげに立つ様子も、スーツに着られてる感も、初々しくてたまらない。
     男臭さがない――感じさせない。さぞや女性にモテることだろう。同年代、歳下からはもちろんのこと、おそらく歳上からも。母性本能を刺激するタイプのように思えた。もうむちゃくちゃに可愛がりたいと思わせる――そんな子。
     かぁっと、顔が赤くなる。愛子は慌てて、口元を手で覆った。

    橘「大淀さん?」
    愛子「っ……! し、失礼いたしました」

     橘が訝しげに首を傾げ、愛子はハッとして、慌てて頭を下げた。

    愛子「ユメコミの大淀です。よろしくお願いいたします」
    橘「凄腕の編集さんだ。これから一緒に仕事することもあるだろう。よくよく勉強させてもらえよ」
    愛子「そんな……」
    篠原「はい! よろしくお願いします!」

     爽やか過ぎる、キラキラ笑顔が眩しい。

    愛子「そ、それでは……」

     愛子は再び頭を下げると、そそくさとその場から逃げだした。そのまま、給湯室へ。
     
    愛子「っ……」

     お盆を置き、流しに手をつく。そして、ドクドクとうるさい胸を押さえる。頬が熱い。
    ああ、不自然な態度ではなかっただろうか? このトキメキに気づかれてはいないだろうか?
     愛子は身体を震わせ、熱い吐息をもらした。

    愛子「(ああ、なんて……)」

     まだ心臓がうるさい。この興奮は、当分収まりそうになかった。

    愛子「(まさに、理想……)」

     普通の主人公であれば、爽やかワンコ系のイケメンに一目惚れというのが物語におけるセオリーだろう。いくら愛子が29歳でも。篠原が24歳でも。いや、歳下に惹かれるというのは、むしろ今は王道なのかもしれない。
     だが、そこは愛子。大淀 愛子。大きく淀んだ女――。それは一目惚れなんてものでは決してなかった。
     愛子はカッと目を見開くと、血走った目を編集部の方へ向けた。

    愛子「(なんて、理想の『受け』っ……!)」

     理想は理想。だが恋の相手としての理想ではなかった。
     三次元の男嫌いの愛子に、そんなもの恋の相手としての理想は存在しなかったのである。

    愛子「(ああ、だめ。早く平常心を取り戻さなくては。萌え倒しているところを、誰かに見られでもしたら……)」

     目を閉じて、深呼吸を数回。それでも足りず、さきほどの急須にお湯を入れ、二番茶を飲む。そして、再び目を閉じ、はぁあぁああぁぁーっと深く息をつく。
     そのまま、十秒――。

    愛子「よし」

     きりっと頬を引き締め、くいっと眼鏡を上げる。

    愛子「さぁ、仕事」

     手早く湯呑みを洗い、給湯室を出る。

    後輩「あ、大淀さん。良かった――。ちょうど、お電話です。小野先生から」
    愛子「そう。ありがとう」

     にこりともせず、けれどお礼はちゃんと言って、椅子に座る。ボタンを押し、受話器を耳に当てた。

    愛子「お世話になっております。大淀です」

     平常心。平常心。あえて窓際の方は見ない。ここは会社。出版社。皆の目がある場所。愛子は、心に鎧を纏う。ここは戦場だ。

    愛子「(ここで私は、負けるわけにはいかない――)」

     ここは戦場だ。己を隠し、己にできる最大の武勲を上げ、報酬をいただく。無様な己を晒し、逃げ出すハメにはなりたくない。
     戦場を、この職場を失ったら――

    愛子「(みっくん(今一番お気に入りのアニメキャラ)に貢げなくなるじゃない!)」

     大淀 愛子。大きく淀む愛を抱く女――。

     何処までいっても、大淀 愛子は大淀 愛子でしかなかったのである。


     *****


    橘「では、部決会議で」

     橘が立ち上がる。編集長は納得していないのだろう。憮然とした表情のままだ。
     頭を下げ、ともに編集部を出る。ふと、視線を巡らせると、先程の女性に目が留まる。漫画家との打ち合わせなのだろうか? とても真剣な表情だった。

    橘「大淀さん。真っ赤だったな」

     編集部を出て、エレベーターのボタンを押して、橘が篠原を見る。からかうような色を含んだ視線に、苦笑する。

    橘「罪な男だなー。篠原。その顔で、もうどれだけの女性社員を落としたのか」
    篠原「そんな……。そんなんじゃないですよ」
    橘「あの人、浮いた噂は一切ないし、それどころか、付き合いの場にもほぼ顔を出さないんだけど。信じられないほど固いから、気をつけろ。迂闊に場を和ませようとして冗談を言ったりすると、無言で凄まじく冷えた氷の視線を向けられるから」
    篠原「そうなんですか」
    橘「そうそう。でも仕事はできる。だから発言力も結構ある方。そっか。そういうタイプには、お前みたいな『可愛がってあげたくなるタイプ』がツボなのかもな」
    篠原「そんなんじゃないですって」

     苦笑し、首を振る。

    篠原「大淀さんに失礼ですよ。そんな誤解をしちゃあ……」
    橘「おおー。良い子の模範解答。きっと、そういうところが、たまんないんだろうなー」

     橘がニィッと笑って、エレベーターに乗り込んでゆく。
     篠原は肩をすくめ、チラリと編集部を振り返った。一転して、隙のない鋭い視線。その瞳が、意味深に煌めく。

    篠原「…………」

     篠原はそっと一つ息をつくと、橘を追ってエレベーターに乗り込んだ。

  • 第二話

     篠原 遥――彼は完璧だった。

     サラサラのクセのない茶色の髪。同じ色の瞳は優しく、穏やか。頬は引き締まっており、柔和な表情で目立たないが、実は精悍。鼻筋もしっかり通っている。形の良い唇は甘く、常に笑みを忘れない。
     身長は決して低くはなく、だが高過ぎず。スタイルは抜群。細腰だけど、華奢過ぎず。清潔感があって、無駄な男臭さや野卑な下品さとは無縁。しかし、なよなよして女々しいわけでもない。中性的な魅力に溢れていても、誰がどう見ても男。しっかり男。
     爽やかで、礼儀正しく、女性への気遣いを忘れないフェミニスト。
     仕事はできるが、ほどよく抜けているところもあり、女性の庇護欲を煽る。
     そのくせ、頼りになるところはしっかり頼りになるのだ。

    愛子「完璧。完璧過ぎる。これほど完璧な男がいていいのか。けしからん。これはもう、黒髪眼鏡の鬼畜上司に誘惑されて、是非ともそちらに堕ちていただきたい。王道。そう。そこは王道でいい。黒髪眼鏡の鬼畜上司。まさに、萌えの王道! できれば敬語。それで完璧っ! 彼には、新人指導と称して、誰もいない深夜のオフィスでいけない残業をしていただきたい。その薄い本、言い値で買おう!」
    稲森「怖い。お前、怖いから」

     稲森が缶ビールを開けながら、ため息をつく。

     愛子の部屋。お洒落な2LDK。独りで住むには、充分過ぎる部屋だ。ソファーの座る部分を背もたれにして、稲森がビールを煽る。既にセンターテーブルの上には、空き缶が山の如しだった。

     そのわずかな隙間に肘をつき、手を組み、それで口元を隠す。
     俗に『ゲンドウポーズ』と言われる体制で、愛子は虚ろな視線をテレビへと向けた。

    愛子「これほど理想的な『受け』がいていいのか……」
    稲森「そこで『受け』に行くところが、お前だよなぁ……」
    愛子「他に何処に行けと!」
    稲森「うん。まぁ……いいや」

     たった一週間で、篠原はもうアイドル扱いになっていた。あらゆる部署の女性社員が、彼の噂をする。愛子自身は、帰りがけに一度見かけたことがある程度だったが、それでも随分と篠原について詳しくなっていた。

    愛子「そうは言っても、アンタもわかってくれると信じてる!」
    稲森「悔しいが、わかる」

     ダンとテーブルを叩いた親友に、稲森は頷く。きっぱりと。

    稲森「アタシはナマモノ妄想には興味なかったんだが、あれは滾るな」
    愛子「そうでしょ!?」

     ナマモノとは、三次元の――実在する人物をネタにすることを言う。

    愛子「私も妄想は二次元のみだったんだけど、あれは反則だよ。けしからん……。マジでけしからん……」
    稲森「何回言うんだ。お前」
    愛子「ついに今日は、原稿のチェックをしながら脳内で篠原くんを三度も鳴かせてしまいました。職場ではそういう妄想はしないようにしていたのに……」
    稲森「ああ。デスクを叩いて『いけないっ……!』って言ってたのは、そのせいか。我に返ったと」
    愛子「え? あ、いや、それは『(篠原くん。そんなことをそんな顔して言ったら、男の劣情に火をつけるだけだからっ! ああ!)いけないっ……!』だったんだけど」
    稲森「どんだけがっつり妄想してんだ。お前。職場だぞ」
    愛子「だから、マズイんだって! ここらでやめておかないと。とんでもないことになりそうで……」

     すっかり冷めてしまったピザに手を伸ばし、愛子がため息をつく。

    愛子「この趣味は誰にも知られるわけにはいかない。知ってしまった者は……消す。葬り去る」
    稲森「物騒だな」
    愛子「社会的に」
    稲森「本気だな」
    愛子「でも、一人二人ならまだしも、同じ会社から三人も四人も消えたら騒ぎになるじゃない?」
    稲森「一人二人でも騒ぎになると思うけどな」

     稲森のツッコミに、しかし愛子はそれをサラッとスルー。

    愛子「だから、信用出来る少人数ならバレても……という考え方はしない。それは甘え。出版社なんだし、周りも理解してくれるよっていうのもなし。稲森以外の会社の人間には絶対に知られるわけにはいかないの。隙を見せるわけにはいかない」
    稲森「人数が多くなると消すのが面倒だから、隙を見せないようにしなきゃって……相当怖い考え方だぞ? お前」
    愛子「怖くてもいいの。そのぐらい思って、気を引き締めておかないと。用心はし過ぎるぐらいでいいと思ってる」
    稲森「まぁな……?」
    愛子「とりあえず本人とはなるべく接触しないように気をつけようと思う。今日だって、篠原くんはブラックコーヒーが苦手って情報をうっかり耳にしてしまって、それを先輩に弄られるところからはじまるラブストーリーが脳内駆け廻って大変だったから」
    稲森「趣味を隠してると、いろいろ大変だな」
    愛子「そうだね。でも、墓まで持って行くけどね。この秘密は」

     そう言って愛子が、ピッとキッチンの方を指差す。正確には、その方向にある、壁一枚隔てた隣の部屋を。

    愛子「私が死んだら、あの部屋にあるものは全て、他の人の目に触れる前に燃やしてね。この約束を破ったら、末代まで祟り殺す。お前と水嶋の遺伝子を後世に残しはしない」

     水嶋は、稲森の恋人だ。フレンチレストランのシェフをしている。付き合って、かなり長い。このまま結婚するだろうと、愛子は――そして本人も思っている。本人達、と言うべきか。29歳になってまだ結婚していないのは、タイミングを逃しているに過ぎない。
     稲森はそっとため息をついた。

    稲森「……アタシ、お前の友達だよな?」
    愛子「友達だからこそ、そんなことにはならないと信じてる」
    稲森「ああ言えばこう言う」
    愛子「遠慮なく言えるのは、稲森と水嶋だけだからね」

     愛子がへへへと笑う。だいぶ酔いも回ってきているようだ。しかしだからこそ、それは紛れもない本音なのだと思う。
     仕方ないなと言うように、稲森が笑う。そして、軽く愛子の頭を小突いた。

    愛子「痛っ」
    稲森「間違いなく積み荷は燃やしてやるから、安心して成仏しろよ」

     力強く、頼もしい。心から信じられる言葉。何があろうと、稲森だけは死ぬまで自分の傍にいてくれるのだろうと思う。
     しみじみ、感じる。
     そんな友を得られたことは、本当に幸運だったと――。


     *****


    愛子「あ、れ……?」

     外に出ると、大雨だった。にわか雨。傘を持っていない人達が、バタバタと慌ただしく走っている。
     愛子は鞄から折りたたみ傘を取り出すと、ササッと開いた。
     MoMAのスカイアンブレラ。開くと、内側に目も覚めるような青空が現れる。青空を一人占めできるこの傘を、愛子はいたく気に入っていた。お気に入りの傘を使えるというだけで、憂鬱な気分とは無縁でいられる。
     雨足はかなり強く、アスファルトで跳ねる水が気にならないわけではなかったけれど、しかし駅はすぐそこだ。雨宿りして時間を無駄にすることもないだろう。

    愛子「(戻ったら、まずメールのチェック。プロットがそろそろ届くはず。ああ、そうだ。香坂先生、アシスタントが欲しいって言ってたっけ。手配しないと。後は……)」

     やることは腐るほどある。どうすれば効率よく、短時間で済ますことができるだろう。頭の中でシュミレーションしながら、歩く。
     これは、愛子のクセでもあった。ぼぅっと何も考えず歩くなんて、もったいない。この時間、脳みそをフル回転させてシミュレーションすれば、その後の作業効率が格段に向上する。その場で考えながら動くより、既にシミュレーションしておいたことをなぞる方が全てスムーズに進む。
     通勤時も同様だった。行きは、今日の予定を。帰りは、明日の予定を。しっかりと組み立てる。細部まで詳細に。そして、職場ではそのとおりに動くのだ。
     それが、愛子の『デキる女』という評価を支えている一因でもあった。

    愛子「あ、れ……?」

     例にもれず、バタバタと慌ただしく走る人達を横目にあれこれ考えながら歩いていて、しかしふと、何かが視界をかすめたような気がして、愛子は足を止めた。
     傘のせいで視界が狭くなっていたけれど、今のは――?
     傘を少し持ち上げ、後ろを振り返る。そして、愛子は目を見開いた。
     商業ビルのエントランスを借りて、雨宿りしている青年――。濡れた髪を指で払って、憂鬱そうに空を見上げているのは、篠原だった。
     こんなところで何をしているのだろう? そう考えて――しかしすぐに納得する。この近くには、大型の書店がある。おそらくそこに行っていたのだろう。店員に覚えてもらうためにも、最初のうちは用事がなくともとにかく書店には顔を出す。新人営業の鉄則だ。
     その帰りに、この雨か。確かに、傘を買うためにコンビニに行くにも、駅まで突っ切るにも、中途半端な距離だった。少し待てば、通り過ぎる。あるいは、雨足が弱まる。その可能性の方が確かに高いように思う。無理せず雨宿りすることを選んだのは、賢明な判断かもしれなかった。
     
    愛子「(あまり関わりたくないんだけど……)」

     そう思いつつ、しかし見て見ぬフリも気持ち悪い。気づいてしまった以上、愛子の性格的にも、このまま立ち去るのはなんとも居心地が悪かった。
     愛子は息をつくと、くるりと踵を返した。

    愛子「えーっと、篠原くん?」
    篠原「……! あ……」

     前に立つと、篠原が愛子に気づき、小さく目を見開く。

    篠原「大淀、さん?」
    愛子「……! へぇ。覚えてるの? 軽く挨拶しただけなのに」

     それは嫌味でもなんでもなく、本当に驚いていた。まさか、あの一回で覚えているとは思わなかったのだ。出版社にどれだけの人間がいると思っているのか。能力の高い愛子ですら、営業部で顔と名前が一致する人間は、ごくわずかしかいない。

    篠原「あ、はい。顔や名前を覚えるのは、割と得意で……」
    愛子「そう。社に戻るところだった? それとももう一軒回る予定?」
    篠原「あ。もう一軒行くはずだったんですけど」
    愛子「そう」

     愛子は頷いて、しばし逡巡する。ここからは駅の方が近いか。それともコンビニの方が近いか。少し考えて、愛子は篠原に傘を差しだした。

    篠原「え……?」
    愛子「これ貸してあげる。だから、駅まで送って。駅についたら、それ持って予定どおり書店巡りしなさい。私は社に戻ってるから」
    篠原「え!? でも……」
    愛子「いい仕事をしたいなら」

     遠慮がちに首を振ろうとした篠原に、しかしそれを許さず、ピシャリと言う。

    愛子「上に行きたいなら、好意は受け取りなさい。他人を利用しろとまでは言わないけど、頼ることは恥ずかしいことではないと、覚えなさい。必要のない遠慮をして、せっかくのチャンスを逃すような真似は、親切をしてくれた相手にも、自分を育ててくれている先輩にも失礼なことなんだと思いなさい」
    篠原「――!」

     思ってもみない言葉だったのだろうか? 篠原が息を飲み、目を見開く。

    愛子「どうするの? 私も暇じゃないんだけど」
    篠原「あ……! か、借ります!」

     考える暇を与えることなく畳みかけるように言うと、篠原が傘を受け取る。
     愛子が促すと、篠原は足下の鞄を持ち上げた。そのまま、並んで歩き出す。

    篠原「あ、ありがとうございます!」
    愛子「お礼を言うようなことじゃないけど……受け取っておくね。でも、駄目じゃない。営業マンは傘必須。必ず鞄に入れておくこと」
    篠原「は、はい」
    愛子「あとは、アドバイス。百均なんかで雑に選らばないで、これってお気に入りの傘を買っておくと、雨の日の外周りもそんなに憂鬱じゃなくなるから」

     愛子は篠原を見上げ、ニッコリと微笑んだ。

    愛子「頑張れ」
    篠原「――! はい!」


     *****


     駅につくと、愛子は鞄から、コンビニで買った珈琲を取り出した。まだ温かい。それを篠原に渡す。

    愛子「はい。じゃあ残り、頑張って」
    篠原「あ、ありがとうございます」
    愛子「ブラックだけどね」

     悪戯っぽい言葉に、篠原が苦笑する。愛子は笑顔を返すと、くるりと踵を返した。


     *****


    篠原「印象が、違ったなぁ……」

     ポツリと、ひとりごちる。篠原はプルタブを押し上げると、それを煽った。
     鮮やかな青が、目に眩しい。青空を一人占めしているようで、少し気分が良かった。

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